情報
-
-
座右のニーチェ (光文社新書)
出版社 光文社 著者 齋藤孝 発売日 2008-06-17
この本に関する書評
この本について書かれているページがありましたら、ご自由に登録して下さい。
Amazonレビュー
まず、タイトルを見て違和感を覚えた(‐0.5☆)。
読んで思ったのは、これはニーチェの著作(ほとんどが「ツァラトゥストラはかく語りき」)から適当な箇所を抜粋し、無理に前向きな解釈をしているなということ。もっと言えば、曲解しているなということ。もっとも、ニーチェ自身、世界を解釈するのは各人の欲求であるという旨の文を書いてはいるが、ここまでされると怒るのではないか(‐4.0☆)。
読者に前向きな「突破力」を身に付けさせようというのなら、ナポレオンとか、坂本龍馬が題材として適切であり、現に著者もこの二人を題材にした著作を出している。
確かにニーチェの思想をもったいつけて振り回す人々には嫌気がさすけれど、本書の趣旨にはまったく共感できない。本書を読んでニーチェの著作を本気で読もうとする人がいたら、やめた方がよい。きっと、気が滅入り後悔する。
以上から、星の数は、☆1つ(四捨五入)。必要以上に難解な言葉で人を煙に巻くのはよくないが、難解でしかないものを無理にやさしくするのは、もっとよくない。
(追記:2010年2月7日)
ニーチェの著作に関する入門書としては、竹田青嗣氏の「ニーチェ入門」がよいと思う。永井均氏の「これがニーチェだ」も面白かったが、ちょっと難解であるし、毒もあるので、入門書として読むには重い内容と思う。
また、☆一つの評価に至った減点箇所を明示した。
読んで思ったのは、これはニーチェの著作(ほとんどが「ツァラトゥストラはかく語りき」)から適当な箇所を抜粋し、無理に前向きな解釈をしているなということ。もっと言えば、曲解しているなということ。もっとも、ニーチェ自身、世界を解釈するのは各人の欲求であるという旨の文を書いてはいるが、ここまでされると怒るのではないか(‐4.0☆)。
読者に前向きな「突破力」を身に付けさせようというのなら、ナポレオンとか、坂本龍馬が題材として適切であり、現に著者もこの二人を題材にした著作を出している。
確かにニーチェの思想をもったいつけて振り回す人々には嫌気がさすけれど、本書の趣旨にはまったく共感できない。本書を読んでニーチェの著作を本気で読もうとする人がいたら、やめた方がよい。きっと、気が滅入り後悔する。
以上から、星の数は、☆1つ(四捨五入)。必要以上に難解な言葉で人を煙に巻くのはよくないが、難解でしかないものを無理にやさしくするのは、もっとよくない。
(追記:2010年2月7日)
ニーチェの著作に関する入門書としては、竹田青嗣氏の「ニーチェ入門」がよいと思う。永井均氏の「これがニーチェだ」も面白かったが、ちょっと難解であるし、毒もあるので、入門書として読むには重い内容と思う。
また、☆一つの評価に至った減点箇所を明示した。
ニーチェは苦手です。
どうも、後ろ向きの解釈をしそうになって。
たまたま読んだのが、20前の暗い時代だったからかもしれない。
斉藤孝とニーチェの接点が分らなかった。
私なら、ニーチェを取り上げずにサルトルを取り上げたと思う。
どうも、後ろ向きの解釈をしそうになって。
たまたま読んだのが、20前の暗い時代だったからかもしれない。
斉藤孝とニーチェの接点が分らなかった。
私なら、ニーチェを取り上げずにサルトルを取り上げたと思う。
松岡修造のあの熱さが好きだ。斉藤孝も熱い。なんたって「ミッション・パッション・ハイテンション」なんだから。その斉藤孝の勝手な解釈によるニーチェ本で限りない誤読だとの批評もあるが、これはニーチェの哲学を語る本ではなく、斉藤孝がニーチェを小道具にして自分の思いを熱くハイテンションで語るための本なのだ。私はこの本を高校生の娘に「読んでみ!」とプレゼントした。進路や人間関係に悩む彼女の背中を「そっと」ではなく「バン!」と思いっきり叩きつつ行く道を教えてくれる本だと思う。
ニーチェが非常に多様な読解を許す思想家であるということは言うまでもない。しかし、本書において語られていることは、ニーチェの真摯さ、ラディカルさをまったくと言って良いほどに欠いている。ニーチェの発言を曲解して、ニーチェの思想を飼い慣らし牙を抜いてしまうくらいなら、そもそもニーチェを題材にすべきではない。そういう意味で本書は駄作だ。
啓発が必要な人はカーネギーでも読むと良い。
そして、ニーチェについて知りたいのなら、ニーチェ自身の著作に当たるべきだ。
啓発が必要な人はカーネギーでも読むと良い。
そして、ニーチェについて知りたいのなら、ニーチェ自身の著作に当たるべきだ。
「取り合えず 読んでみた」というのが 実感である。
ニーチェの本は読んだことがないので 本書で斎藤が引用している各種の言葉が どれほどニーチェの望んだ方向で 紹介されているのかどうかが分からない事が 僕にとっての本書の難しさである。
斎藤は 巧みにも「ニーチェを知りたいと思ったとき 理論を完璧に理解しなくていい。全体像がつかめなくても構わない。むしろ 一つのアフォリズムを座右の銘にし 大事にしていくことだ」と本書の冒頭で述べている。この宣言によって 斎藤は ニーチェの言葉を自由に使う権利を得た。そうして その「使い方」は ニーチェの趣旨に則っていなくてもよいことになったわけだ。
「誤読」という言葉がある。本書は斎藤によって 自由に 若しくは 確信犯的に「誤読」されている可能性を常に感じた。
但し 本は 発刊された瞬間に 著者の手を離れるものであるし 「誤読される権利」だってあると考えてもよいのだと思う。何より 読まれることが その本にとっては一番大事なのに違いない。
そう考えると 本書経由でニーチェの著作を読む人がいるとしたら それは斎藤のお蔭であり ニーチェも そんな斎藤に感謝するのではないかと思う。
いまだにニーチェを読んでいない僕が 本書に感想を言うとしたら 現段階では まだこの程度である。
ニーチェの本は読んだことがないので 本書で斎藤が引用している各種の言葉が どれほどニーチェの望んだ方向で 紹介されているのかどうかが分からない事が 僕にとっての本書の難しさである。
斎藤は 巧みにも「ニーチェを知りたいと思ったとき 理論を完璧に理解しなくていい。全体像がつかめなくても構わない。むしろ 一つのアフォリズムを座右の銘にし 大事にしていくことだ」と本書の冒頭で述べている。この宣言によって 斎藤は ニーチェの言葉を自由に使う権利を得た。そうして その「使い方」は ニーチェの趣旨に則っていなくてもよいことになったわけだ。
「誤読」という言葉がある。本書は斎藤によって 自由に 若しくは 確信犯的に「誤読」されている可能性を常に感じた。
但し 本は 発刊された瞬間に 著者の手を離れるものであるし 「誤読される権利」だってあると考えてもよいのだと思う。何より 読まれることが その本にとっては一番大事なのに違いない。
そう考えると 本書経由でニーチェの著作を読む人がいるとしたら それは斎藤のお蔭であり ニーチェも そんな斎藤に感謝するのではないかと思う。
いまだにニーチェを読んでいない僕が 本書に感想を言うとしたら 現段階では まだこの程度である。