情報
-
-
心的現象論本論
出版社 文化科学高等研究院出版局 著者 吉本 隆明 発売日 2008-07
この本に関する書評
この本について書かれているページがありましたら、ご自由に登録して下さい。
Amazonレビュー
本の体裁を成しているとは思えないほど広範。「〜論」が複数あって一冊となっているが、全体像が見えないので、各論として見ようにも難しいところがあった。いろんな書物の説を紹介しながらその紹介の過程が著者の思考の開陳となっているところが独特。普通ならこの手法を取ると、丁寧な他者の学説の解説に終始して、おもしろくもなんともないはなしになってしまうが、本書では或る理論の紹介や解釈が、筋を追うような線形を成すというより、広がり、「場」を展開している。意図してそうしているとは思えず、おのずとそうなっているところが積年刻苦の結果なのだろう。「了解論」のヘーゲルとマルクスの検討は、著者の得意分野だけに特に目を惹いた。ヘーゲルの世界史の哲学において、東洋人、ギリシア人、ゲルマンの規定は、どこかしら反感を買うし、また「実証的」にも「経験的」にもあてにならない、と言いたくなる。が、著者は正直にも、その心底には、誰しもヘーゲルの規定をどこかしら前提にせざるをえないような、納得させる力があることに注目する。それら反感や不満の多くは「そんな規定はステレオタイプだ」という意識であると思うが、ということは、非常に根本的な規定であることを示唆している。そういう点を著者は見逃していない。では、こんな怪しげな規定がなぜ力を持つのか。その理由について著者はヘーゲルの「論理と認識の配置」に納得させられているところがあるからだ、という。つまり「東洋人」「ギリシア人」「ゲルマン」という概念が空間的に並置された時の「差異」の〈了解〉に対して〈自由〉という概念が衝突する反応の仕方をわれわれは読んでいるのだ、と。私にはこの部分はヘーゲルの世界認識の方法のエッセンスが集約されているように思ったし、著者の力量を感じた部分だ。戦前から何度も論じられてきたヘーゲルの世界史概念はおよそ使い古しで「またしても」の感に襲われるが、著者にかかるとそういう通りすがりの対応にはならない。本書は巨大な本で通読は容易ではない。だが随所に展開される著者の解釈、批判的検討は、思想家と普通の人の差を示してくれて新鮮だ。さらに驚くのは巻末、著者の親族の不治の病に触れて、自分が「答えてあげることができなかった」ことを示し、「通りやすいところだけ通っている」思考は駄目なんだ、という自省のような話を語っている点だ。本書は40年近い累積の中、抽象的な思考を駆使し続けた大著だが、一方閉じることなく逃げも隠れもしないスタンスに、呆れつつも本当の文人の姿を見た気がした。
たとえ上梓の経緯が気に食わないとしても、本書が少しでも広く読まれることはのぞましい。吉本隆明の思考が現在でも誰よりも図抜けていることは明白なこと。どなたかが「ジャレド・ダイアモンド」を高く評価していましたが、「ジャレドのどこが?、ただの恐ろしく素人のエセ科学者ですが!?。日本にもご同様のチンパンジー好きな女史がいますね。 言語(脳)について何も関わっていないし」「本当に心的現象論読んだの?」と首をひねりたくなる。こんなふうに、いろいろ事情通であるけれど、肝心の書物の中身を理解できていない人が結構いるのかなー?
本書は大きく分けて「眼の知覚論」「身体論」「関係論」「了解論」からなっている。
「眼の知覚論」の議論がどのような議論かについては『敗北の構造』にあった「色彩論」(というタイトルだったと記憶している)で、「身体論」の議論については『心とは何か』にある「身体論をめぐって」「障害者問題と心的現象論」でその概要を知ることができるとおもう。
「関係論」は『共同幻想論』にあった〈入眠幻覚〉を『心的現象論序説』の方法で整理し直したとでもいえようか。
「了解論」に関しては途上なのですべてを語ることはできないが、『世界認識の方法』で議論されていたことがはじめの三分の一の内容となっているといってしまっていいだろう。
三分の二に入ったところで「パラノイア」や「臨死体験」に関する記述がみられ、『マス・イメージ論』の導入である「変成論」や『ハイ・イメージ論』の導入である「映像の終わりから」につながっていたんだなということがわかる。それ以降の内容はまだ読んでいない。
「眼の知覚論」の議論がどのような議論かについては『敗北の構造』にあった「色彩論」(というタイトルだったと記憶している)で、「身体論」の議論については『心とは何か』にある「身体論をめぐって」「障害者問題と心的現象論」でその概要を知ることができるとおもう。
「関係論」は『共同幻想論』にあった〈入眠幻覚〉を『心的現象論序説』の方法で整理し直したとでもいえようか。
「了解論」に関しては途上なのですべてを語ることはできないが、『世界認識の方法』で議論されていたことがはじめの三分の一の内容となっているといってしまっていいだろう。
三分の二に入ったところで「パラノイア」や「臨死体験」に関する記述がみられ、『マス・イメージ論』の導入である「変成論」や『ハイ・イメージ論』の導入である「映像の終わりから」につながっていたんだなということがわかる。それ以降の内容はまだ読んでいない。
本書は、吉本同伴知識人による、吉本TEXTの、商業主義的囲い込みの極致である。
山本哲士はかつて、「吉本隆明が語る戦後55年」と題し、「週刊読書人」紙上に掲載されたインタビューを水増しし、なんと1冊2千円もする本を12分冊で読者に売りさばくという、資本主義的大手出版社も顔負けの商法で、吉本思想を寡占しようとした輩である。
そして今度は、未刊の主著である「心的現象論」の本論を、なんと8400円という高値で売りさばこうというのである。新たに書き起こされたものではなく、過去に雑誌掲載されたものをまとめれば良かっただけなのに。
「心的現象論」は、かつて吉本が主宰してした雑誌「試行」で、「言語にとって美とは何か」連載終了後、すぐに後を追って連載が開始されたものである。それが、1997年12月に発行された終刊号(74号)まで、延々と連載され、ついに完結を見ること無く終了した論考である。
そのうち、「試行」28号まで発表分が、まず単行本にまとめられたが、それ以降の分は、「試行」を手に入れなければ読めない状態であった。かつての小林秀雄の新潮「ベルグソン論」みたいなものである。(現在では新版の全集で読めます)
ただし、残りの部分がすべて完全に未刊であった訳ではない。
「試行」73号発表分が、ハイ・イメージ論の「母型論」におさめられていたし、実は、最初に述べた山本哲士の「吉本隆明が語る戦後55年」の7巻目から、「連載資料」と称して、「目の知覚論」〜「関係論」が掲載されていたのである!
つまり、われわれ吉本マニアは、かなりの部分だぶって、お金を支払っていたわけだ。
石油不況のこのご時世で、こんなあくどい商売が成り立つのは、マニアの世界だけである。
――肝心の内容に関してだが、三十年以上にわたって持続した思考を保ち続けた吉本さんの粘り強さにはただただ敬意を表するばかりであるが、ではさて、本稿の思想上の意義はと言えば、正直言って「?」である。
本考がなくとも、現代思想はともかく、戦後日本思想史もやっていけるし、細かい部分で勉強になる箇所は沢山あるだろうが、少なくとも、吉本隆明おっかけ以外には、安易にお薦めできる代物ではない。
一言で評するなら「素人四畳半思想の極限値」、あるいは「一人で頑張る人文科学分野の限界値」。たとえば、ジャレド・ダイアモンドの近作を読んだ後では、まるで......
学生時代、安保闘争などで燃え上がった世代の、老後の楽しみには、うってつけであろう。
そのうち、ご近所のお年寄りサークルなどで、「源氏物語を読む会」の代わりに、「心的現象論を読む会」などが開催される日も近いのかもしれない。
一冊に上梓されたのは慶賀すべきことなのだろうが、願わくば、新潮社などの大手「資本主義的商業主義的」出版社が、4千円くらいで販売してほしかった。
山本哲士はかつて、「吉本隆明が語る戦後55年」と題し、「週刊読書人」紙上に掲載されたインタビューを水増しし、なんと1冊2千円もする本を12分冊で読者に売りさばくという、資本主義的大手出版社も顔負けの商法で、吉本思想を寡占しようとした輩である。
そして今度は、未刊の主著である「心的現象論」の本論を、なんと8400円という高値で売りさばこうというのである。新たに書き起こされたものではなく、過去に雑誌掲載されたものをまとめれば良かっただけなのに。
「心的現象論」は、かつて吉本が主宰してした雑誌「試行」で、「言語にとって美とは何か」連載終了後、すぐに後を追って連載が開始されたものである。それが、1997年12月に発行された終刊号(74号)まで、延々と連載され、ついに完結を見ること無く終了した論考である。
そのうち、「試行」28号まで発表分が、まず単行本にまとめられたが、それ以降の分は、「試行」を手に入れなければ読めない状態であった。かつての小林秀雄の新潮「ベルグソン論」みたいなものである。(現在では新版の全集で読めます)
ただし、残りの部分がすべて完全に未刊であった訳ではない。
「試行」73号発表分が、ハイ・イメージ論の「母型論」におさめられていたし、実は、最初に述べた山本哲士の「吉本隆明が語る戦後55年」の7巻目から、「連載資料」と称して、「目の知覚論」〜「関係論」が掲載されていたのである!
つまり、われわれ吉本マニアは、かなりの部分だぶって、お金を支払っていたわけだ。
石油不況のこのご時世で、こんなあくどい商売が成り立つのは、マニアの世界だけである。
――肝心の内容に関してだが、三十年以上にわたって持続した思考を保ち続けた吉本さんの粘り強さにはただただ敬意を表するばかりであるが、ではさて、本稿の思想上の意義はと言えば、正直言って「?」である。
本考がなくとも、現代思想はともかく、戦後日本思想史もやっていけるし、細かい部分で勉強になる箇所は沢山あるだろうが、少なくとも、吉本隆明おっかけ以外には、安易にお薦めできる代物ではない。
一言で評するなら「素人四畳半思想の極限値」、あるいは「一人で頑張る人文科学分野の限界値」。たとえば、ジャレド・ダイアモンドの近作を読んだ後では、まるで......
学生時代、安保闘争などで燃え上がった世代の、老後の楽しみには、うってつけであろう。
そのうち、ご近所のお年寄りサークルなどで、「源氏物語を読む会」の代わりに、「心的現象論を読む会」などが開催される日も近いのかもしれない。
一冊に上梓されたのは慶賀すべきことなのだろうが、願わくば、新潮社などの大手「資本主義的商業主義的」出版社が、4千円くらいで販売してほしかった。
1冊になった「心的現象論」の本論です。
先の『心的現象論序説』は、あらかじめ全体を述べた序説であり、概論であったので、
完結していてまとまりもあり、それなりに解りやすかったと言えるでしょう。
しかし、本書は、本論であり詳論であって、なおかつ未完であり、
著者の意図が解りにくい議論もあります。
著者の到達点でもある『母型論』理解には、本書の<再読>が必須であると思われます。
2段組で500頁を超える大冊であり、読み通すのは困難でしょうが、コツコツ読むしかないでしょう。
人間とは何かを問う根拠論として。
また、物質ならざる人間存在を理解するためには、です。
先の『心的現象論序説』は、あらかじめ全体を述べた序説であり、概論であったので、
完結していてまとまりもあり、それなりに解りやすかったと言えるでしょう。
しかし、本書は、本論であり詳論であって、なおかつ未完であり、
著者の意図が解りにくい議論もあります。
著者の到達点でもある『母型論』理解には、本書の<再読>が必須であると思われます。
2段組で500頁を超える大冊であり、読み通すのは困難でしょうが、コツコツ読むしかないでしょう。
人間とは何かを問う根拠論として。
また、物質ならざる人間存在を理解するためには、です。