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最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)
出版社 筑摩書房 著者 吉本 隆明 発売日 2002-09
この本に関する書評
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Amazonレビュー
この書物の中で、いいなあ、と思ったのは、吉本隆明が引いてきた親鸞と弟子の唯円との対話であった。唯円が念仏を唱えても煩悩はあるし、浄土に行く気にもなれません。といったのに対し、親鸞は、煩悩があるのは当たり前だし、そうした煩悩の世界に執着するのが、人間なんだ。今は浄土に行きたいと思わなくても、その機会が訪れれば、自然と浄土に行く気になるよ。と答えた。確かこのような内容だったと思う。日々の生活の中で、〜なのだから、〜しなければならない。という因果関係の論理に縛られて、身動きが取れなくなることは多いと感じる。そして、自分ばかりでなく、他人にまでこの論理を押し付けて、ますます身動きが取れなくなってしまうこともよくある。吉本隆明は二人の対話を挙げる事で、人間の思考が取りうる範囲を必然から、可能性に向けて、拡大しているように思える。それは束縛に満ちた自分と、自分との関係、及びに、自分と他人との関係を、自由な運動を含みこんだ可能性としての関係に、展開させてゆく思考であるようにも思えた。読了後、心が自由になり、ほっとしている自分に、気付かされた書物であった。
ここで終始巡っているのは、連続性と非連続性の問題だろうか? <絶対他力>と<自力>、<知>と<愚>、<一念>と<多念>、<善>と<悪>、<信>と<不信>、<浄土>と<穢土>、<僧>と<俗>・・・。たとえば浄土とは穢土が限りなく浄化された穢土なのか、穢土とは浄土が限りなく汚された浄土なのか。そうであれば、一念多念もそうであろう。善悪も程度問題、相対的な問題に過ぎなくなる。寺や仏像や信者の数を増やしても悟りや浄土や信に近づけはしないと親鸞は洞察したのだ。そこには絶対的な断絶、不連続性がある。では何を根本的に浄土教を、仏教そのものを革新したのか? おそらく親鸞の偉大さは自己に内面を発見したことにある。あらゆるものに質的な非連続性があることを観取したのだ。連続性のタームで語ればなんであれ当時の保守エリート僧や一遍らの限界が待っている。しかしそうした因果論的実在論的な連続の地平を断ち切るなら、そこにはもう個人の内面、実存の深さに降りていかなければならなくなる。そうした地平を鈴木大拙氏は「日本的霊性」という言葉で語った。内面の深さはけっして他者によって担保されえないゆえに、秘匿のものとならざるを得ない。しかしその質を他者が真面目に捉えるなら、それこそ爆弾となりうるし、他者に伝えなくても弟子を集めなくても教団を創らなくてもその信の確信と浄土への信は、親鸞の身振り(絶望的な隘路かもしれないが)によって伝授されうるかもしれない。と同時に逆説的には伝授を絶たれてしまわざるを得ない。いわばどうでもよくなる。面々のはからいである。真宗のみならず宗教の解体は吉本のいうように必然とはなる。親鸞の絶望の深さ、時代の、個人の、宗教界の絶望の深さは、しかし逆説的に信の強さにもなりうるが、これはあくまで主観内にとどまる(信も自力であるなら)。横超もまた凡夫のままなら何をもって他者に「横超した」と言えるだろう? 絶対他力というのも、不可能性の謂いである。自力というものと関連づけられるなら、それはまた限りなく自力に近い他力や限りなく他力に近い自力になってしまうほかなく、絶対他力を温存させるならば個人の内面から超絶的に切り離してしまわざるを得ないだろう。そこではもはやいかなる他力を恃むこそすら不可能になってしまうことだろう。行き着くところは「妙好人(みょうこうにん)」なのだろうか?
現代に「悪人正機説」がなぜ流行るのだろう、
という問いと、そもそも「悪人正機」とは何か、
という問いを持って、本書に向かいました。
親鸞が生き、活動した時代の貧困と混沌の在り様、
悪行を選ぶか死を選ぶか、という程
ひっ迫した状況にあった多くの民が、
愚僧と自称する親鸞の信心に出会うことによって救われた事実が
本書にはつぶさに記されていて、
私は得心が出来、感銘を覚えました。
著者が試行した、親鸞における〈信〉の解体は、
ある意味では大いに成功を収められた、と言えるでしょう。
しかし、結論として、親鸞を、信心よりも思想の人とみなされたところには、多少の違和感を覚えました。
最後まで〈信〉に迫る親鸞の気迫を、感じたかった、というのは、
私の我儘でしょうか?
という問いと、そもそも「悪人正機」とは何か、
という問いを持って、本書に向かいました。
親鸞が生き、活動した時代の貧困と混沌の在り様、
悪行を選ぶか死を選ぶか、という程
ひっ迫した状況にあった多くの民が、
愚僧と自称する親鸞の信心に出会うことによって救われた事実が
本書にはつぶさに記されていて、
私は得心が出来、感銘を覚えました。
著者が試行した、親鸞における〈信〉の解体は、
ある意味では大いに成功を収められた、と言えるでしょう。
しかし、結論として、親鸞を、信心よりも思想の人とみなされたところには、多少の違和感を覚えました。
最後まで〈信〉に迫る親鸞の気迫を、感じたかった、というのは、
私の我儘でしょうか?
法然と親鸞の違いは、たぶん<知>(「御計」)を
どう処理するかの一点にかかっていた。
法然には盛遂できなかったが、親鸞には成遂できた思想が
<知>の放棄の仕方において、たしかにあったのである。
悪人こそが救われるべき存在であるという「悪人正機」。
「ただ念仏をとなえるだけでいい」。
吉本は、親鸞とその師である法然との
微妙な違い(知の放棄の仕方)を考察することを通して、
「何かしなければいけない」と思ってしまう
人間の普遍的な心性を浮き彫りにさせる。
善悪や正義の根拠になっている「地盤」自体に目を向けさせる
親鸞の思想は700年以上前のものでも古びていない。
どう処理するかの一点にかかっていた。
法然には盛遂できなかったが、親鸞には成遂できた思想が
<知>の放棄の仕方において、たしかにあったのである。
悪人こそが救われるべき存在であるという「悪人正機」。
「ただ念仏をとなえるだけでいい」。
吉本は、親鸞とその師である法然との
微妙な違い(知の放棄の仕方)を考察することを通して、
「何かしなければいけない」と思ってしまう
人間の普遍的な心性を浮き彫りにさせる。
善悪や正義の根拠になっている「地盤」自体に目を向けさせる
親鸞の思想は700年以上前のものでも古びていない。
前半はわかりやすかったが、後半は難しかった。
きっと、吉本さんは「非僧・非俗」に生きる親鸞に仮託して、自分の思想家としてのあるべき姿を述べていると感じた。
それはきっと「非思想家・非生活者」ではないだろうか、と推測しているのだが、どうだろう。
大学教授といった思想家風にもならず、阪神タイガースを愛しながらも俗に落ちずに猫を愛する吉本さんの生活は、まさにそんな感じかと思ったのだが。
きっと、吉本さんは「非僧・非俗」に生きる親鸞に仮託して、自分の思想家としてのあるべき姿を述べていると感じた。
それはきっと「非思想家・非生活者」ではないだろうか、と推測しているのだが、どうだろう。
大学教授といった思想家風にもならず、阪神タイガースを愛しながらも俗に落ちずに猫を愛する吉本さんの生活は、まさにそんな感じかと思ったのだが。